学に志す1
1993年11月 松本平人物誌「原
  嘉藤」によせて


  私には、原先生の強烈な思い出がある。それは人生の画期とも言えるものだった気がする。  中学から高校進学の頃、これは誰でもそうだったと思うが、進路に悩んでいた。どこの高校大学に行き、どこに就職するといった類のことではなく、オーバーな言い方をすれば「なぜ勉強するのか」「自己の人生にはどんな価値があるのか」「社会に対して何ができるのか」といった感じの悩みだった。

  社会科が好きだったので、高校に入るとすぐに風土研究会に入部し、生意気にも、早々に信濃史学会の例会を一人で聞きにいった。16才の春であった。そこで初めて原嘉藤先生と一志茂樹先生にお会いした。原先生は60才代の後半、一志先生はとうに70を越えておられたように見うけられた。そのお二人が正面に座し、史学会を取り仕切っていた。失礼な言い方だが、普通なら社会から引退し孫でも抱いて日向ぼっこをしている老人が、である。豊富な学識とそれに裏付けられた威厳。周囲からの厚い尊敬。それにも増して、「地方史はこうあらねば」という強い理念。当時の私は非常に驚いた。すごいと思った。若い学徒のいくつかの研究発表も聞いたが全く上の空で、ひたすら原・一志の両先生を見つめていた記憶しかない。そして考え込んでいた。「僕もあんな老境を迎えられたら。先生方の十分の一でも良い。それは幸せというものではないだろうか。」この日を境に、悩みは薄れ、生きていく方向が徐々に定まっていった。

  それから約20年、進学や就職、仕事の都合でいくつも回り道をしているが、あの日の原先生、一志先生のお姿が脳裏を離れたことはない。日々の仕事に不安は多いが、未来への悩みは少ない。先生方のように、地方史の専門性を研き、組織の力ではなく個人の資質として発言し、最後まで現役を通せる力を得たいと願っている。

残念なことに、昭和58年2月、原先生は急逝され、その頃まだ弱輩だった私は遺跡発掘の折に僅かなご指導を頂いた程度のご縁しか許されなかった。盛大な葬儀の端役に携わりながら、原先生の膨大な学識がその死と共に失われたことは、巨大な文化財を失ったようなものだと、呆然と思っていたことがつい昨日のようだ。




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